プールのバイトを始めて、はや一ヶ月。
正直言って忙しい。忙しすぎる。
監視員をしている時間は比較的ラクな方だけど、それでもマナーの悪いお客さんは多い。
大人も子供も好き勝手にはしゃぎ回るものだから、こちらの笛は常に吹きっぱなしに近い状態だ。
だが、何よりも一番面倒なのはナンパである。
声を大にして言いたい。監視員をナンパするでない、と。
業務中の不要不急な会話は本当に勘弁してほしい。
そもそも「泳ぐのが好きだから」という理由でこのバイトを選んだこと自体が間違いの始まりだった。
目の前にきらめくプールがあるのに、自分はただ見ているだけで泳げないというのは想像以上の苦行だ。
まさに生殺し状態である。
容赦なく降り注ぐ太陽が、私の色白……とはお世辞にも言えない肌を、ジリジリとさらに焼き焦がしていく。
「もう辞めようかな……」
そんな後ろ向きな考えが頭をよぎり始めていたまさにその時、バイトの新人が入ってきた。
私より一つ年下の男の子だ。
しかも、あろうことか私がその子の教育係を任されることになってしまった。
「私は朝倉夏帆。よろしくね」
「あ、はい!僕は高瀬湊です。よろしくお願いします、朝倉先輩。」
「あはは、夏帆でいいよ。みんなそう呼んでるし。」
「わかりました。よろしくお願いします、夏帆先輩。」
「うん、よろしくね、湊くん」
少し線が細くて、お世辞にも私の好みのタイプとは言えない。
けれど――なぜだか不思議と、放っておけなくて守ってあげたくなるような、そんな男の子だった。
まず私は、施設内の案内と簡単な仕事の説明から始めることにした。
「そんなに広くないから見るところは少ないけど、一応決まった巡回ルートがあるから覚えてね。」
なるべく分かりやすいように、実際にルートを歩きながら教える。
まあ、地図も巡回ルートも細かく書かれたマニュアルがあるから、明日には一人でもこなせるようになるだろうけれど。
「これって、いつも一人で巡回するんですか?」
「本来はそうなんだけど、ほら、今ってすごく暑いでしょ?だから念のために二人一組での巡回が義務づけられちゃってるのよ。」
なんでも、去年巡回中に熱中症で倒れたスタッフがいたらしい。
もう少し発見が遅れていたら危なかった、というレベルの大ごとだったそうだ。
その結果、今の「二人一組ルール」ができたというわけだ。
「そうなんですか。それなら安心です。」
湊くんはほっとしたように胸をなでおろした。
なんだろう、なんとなく母性本能をくすぐる子だな。
「しばらくは私とシフトが被ってるから、よろしくね。」
笑顔でパッと彼に向き合うと、湊くんは照れたように目をそらした。
……なんだか、ちょっといじめたくなる子だな。
いや、違うよ?かわいがるって意味よ?
……あ、でも「かわいがり」も別の意味になっちゃうから良くないか。
本当に日本語って難しい。
というか、これはもう言葉狩りの世界なんじゃないだろうか。
私が一人でブツブツと呟いていると、湊くんは不思議そうな顔でこちらを眺めていた。
「さて、お次は掃除ね。必ずタオルと水分を持っていくこと。本当に生死に関わるからね。」
気を取り直して、一度事務所に戻る。
待機しているスタッフに「機械室の掃除に行ってきます。」と声をかけた。
時間がかかりすぎると「中で倒れているんじゃないか?」と生存確認の連絡が入るシステムになっている。
少し面倒だけど、去年の事件を考えれば仕方のないことだ。
支給されているスポーツドリンクとタオルを手に持ち、二人で機械室へと向かった。
重い扉を開けた瞬間、ムワッとした強烈な熱気が容赦なく溢れ出てくる。
「中で作業するときは、絶対に扉を開けたままにしておいてね。さっき言った『倒れちゃった人』、ここで見つかったから。」
「はい!わかりました!」
背筋を伸ばして、元気よく返事をする湊くん。
けれど、その生真面目さが逆に少し心配にもなる。
こういう仕事は、真面目な人ほど限界に気づかず危ういところがあるから。
「じゃ、今日は床磨きの日だから。ブラシはこっちの用具入れにあるから準備しよう。」
そう言って私が歩き出すと、彼は一歩後ろをぴったりとついてくる。
彼の視線を感じ、なんだか少しむずがゆい気持ちになりながら、私は用具入れの扉を開けた。
床掃除自体は、なんてことはない。
床に水を撒き、洗剤を流し、あとは一心不乱にデッキブラシで擦るだけだ。
「湊くんは向こう側をお願いね。」
そう言って、私たちは左右に分かれて作業を始めた。
静かな機械室に、ゴシゴシと床を磨く音が響き渡る。
しばらく体を動かしていると、全身から滝のように汗が噴き出してきた。
そりゃそうだ、サウナのようなこの温度と湿度じゃ、汗が出ない方がおかしい。
決して私が汗っかきだからではない。
「湊くん、ちゃんと水分補給してね。」
声をかけると、「はーい!」と小気味いい返事が返ってきた。
彼の方へ視線を向けると、私に背を向けたまま、必死に床を擦り続けている。
やっぱり根が真面目な子なんだな、とブラシを動かす手を少し止めて眺めてしまった。
水着姿のまま、汗をかき、必死に身体を動かしている若い男の子。
……その姿を見ているうちに、なんだか妙にムラムラしている自分に気づいた。
別に彼とどうこうしたいわけじゃない。
ただ、私は昔から「必死に汗をかいて頑張っている男性」の姿に滅法弱いのだ。
汗に興奮してしまうからといって、決して自分が変態だとは思いたくない。
うちの職場は、服装の規定がかなり緩い。
「緊急時にすぐ救助のためにプールへ飛び込める格好」であれば、基本的には自由だ。
だからスタッフはみんな水着姿で業務を行っている。
さすがに露出が激しすぎるビキニなどはアウトだが、体にフィットした競泳水着なら何の問題もない。
今の私も、もちろん競泳水着姿だ。
湊くんは、相変わらずこちらに背を向けたまま、必死に床を磨いている。
ガタゴトと響く機械の駆動音と、彼が立てるブラシの音。
そんな彼の後ろ姿を見つめながら、私は自分の水着の肩紐に、そっと手をかけた。
そして――。
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