【創作羞恥小説】代理モデル

先輩(CMNF)

自社で開発中のランジェリーブランド。
その新作カタログの撮影現場は、重苦しい空気に包まれていた。

僕と上司の遠山さんは、カメラマンの背後でモデルに指示を出し続けていた。
ファインダーの向こうでは、下着姿のモデルがさまざまなポーズを繰り出している。
正直に言えば男の僕にとっては目の毒でしかない光景だが、仕事である以上邪念を抱く余裕など微塵もなかった。

撮影は予定よりも大幅に遅れていた。
スタジオのレンタル終了時間は刻一刻と迫っている。

「ねえ、もうちょっと手際よく撮れないの?」

遠山さんの声が、スタジオの静寂を切り裂いた。
彼女は、社内でも一目置かれる美人で仕事も出来るが、進行が思い通りにいかなくなると途端にヒステリックな一面を見せる。
普段が理知的で穏やかな人であるだけに、その豹変ぶりは周囲を萎縮させるには十分すぎるほどの恐怖だった。

彼女の語気の強さに、モデルの女性も明らかに気圧されている。
表情は硬くなり、ポーズに迷いが生じる。その悪循環が、さらに時間を浪費させていった。

「次、これ!早くして!」

遠山さんは、次の衣装である下着をモデルに押し付けるように手渡した。

「もう時間が無いから、ここで着替えなさい!」

モデルの顔が、羞恥と困惑で引きつる。
さすがにスタッフ全員が見守る前で着替えろというのは横暴すぎる。
泣き出しそうな彼女を見かねて、僕と撮影スタッフは慌てて暗幕を広げ、急造の更衣スペースを作ってどうにかその場を凌いだ。

遠山さんが立ち会う撮影現場は、スタッフからもモデルからもお世辞にも評判が良いとは言えない。
だが、そうして強引に仕立て上げられた写真の出来栄えは、常に完璧だった。
彼女が立ち会えば3割増しで売れるとも言われている。
だからこそ彼女の振る舞いはこれまで決定的な問題にはならず、黙認され続けてきたのだ。

そしてついに、遠山さんが心血を注いできた渾身の新作下着が完成した。

社内の下馬評は高く、会社としても社運を賭けるほどの宣伝予算が組まれた。
遠山さん自らの手でモデルの選定も完了し、いよいよ勝負の撮影当日を迎えた。


撮影の準備は着々と整い、スタジオ内には高揚感すら漂っていた。
しかし、開始時刻を過ぎても肝心のメインモデルが姿を見せない。

次第にスタッフの間でざわめきが広がり、現場は急速に慌ただしさを増していく。
遠山さんは何度も電話をかけ、必死の形相で交渉を続けていたが一向に話が進んでいる様子はない。
やがて、絶望的な通告があったのか、彼女の手から受話器が力なく離れた。

どうやら、これまでの彼女の横暴な振る舞いに耐えかねたモデル事務所側が結託してボイコットを決行したらしい。

社運を賭けたプロジェクトだ。クオリティに妥協は許されない。
かといって、遠山さんの高い審美眼に適う代役を今すぐ確保することなど、物理的に不可能だった。

スタジオのレンタル時間は、砂時計の砂のように刻々と削られていく。
今回の事態を招いた原因が遠山さんにあることは明白で、スタッフたちの視線には隠しきれない棘が混じり始めていた。

「……どうするんですか、これ?」

カメラマンがいら立ちを隠そうともせず、遠山さんに詰め寄った。
完璧主義の彼女の表情にも、かつてない焦燥の色がにじむ。

「……延期、しますか?」

僕が恐る恐る声をかけると、彼女は震える手でスケジュール帳をめくりながら答えた。

「今日を逃したら、次のスタジオ確保も、プロモーションの解禁も全部狂う。今日……今日じゃなきゃダメなのよっ!」

必死にどこかへ電話をかけ直すが、もはや事態を好転させる術は残されていなかった。

「もう撤収しましょう。時間の無駄だ。」

カメラマンやスタイリストたちが、諦めたように機材を片付け始める。
重苦しい沈黙と、撤収の足音がスタジオを支配しようとしたその時。

遠山さんが、喉の奥から絞り出すような声で、意を決したように口を開いた。

「……私が、やります。」

一瞬、その場の全員の動きが止まった。

「私が……モデルをやります。だから、撮影を続けてください!」

自らが作り上げた最高傑作の下着を、自らの体で晒す。
それは、常に「指示を出す側」として君臨してきた彼女にとって、この上ない覚悟を伴う宣言だった。


スタジオ内を、物理的な衝撃のようなざわめきが駆け抜けた。
いくらなんでも、遠山さんがモデルをやるなんて……。

「確かに遠山さんは美人だけど、下着モデルはスタイルが命だろ?」

カメラマンが冷ややかに言い放つ。
その正論に対し、遠山さんは無言で自らのスーツに手をかけた。

躊躇なくジャケットを脱ぎ捨て、シャツのボタンを外していく。
衆人環視の中でキャミソール姿になった彼女に、誰もが言葉を失い、目を釘付けにした。
彼女は一度深く深呼吸をすると、勢いよくそのキャミソールを脱ぎ去った。

視界に飛び込んできたのは、ブラジャー一枚になった彼女の、鍛え上げられたスレンダーな肢体だった。
完璧主義な彼女の性格を体現したかのような、無駄のない美しいラインがそこにあった。

「……このスタイルで、何か問題は?」

鋭い視線でカメラマンを射抜く。
気圧されたカメラマンは、気まずそうに視線を逸らした。

「いや……遠山さんの企画なんだし、本人がいいなら文句はないですよ。」

決して豊満ではないが、だからこその下着の造形美が際立つそのシルエットは、これまでのどのモデルよりも今回の企画に相応しいと思わせる説得力があった。

「では、着替えてきます。」

そう言って更衣室へ向かおうとした遠山さんを、カメラマンが引き留めた。

「ちょっとちょっと。いつも遠山さんがモデルにやってもらってること、忘れたの?」

その場の空気が凍りついた。いつも遠山さんがモデルにやってもらってること。
それは、撮影前の徹底的な無駄毛チェックだ。
ワキ、鼠径部、そして臀部。
一点の曇りも許さぬよう、下着姿でそれらを晒させカメラで克明に記録して確認する。
これが甘いと遠山さんはヒステリックに叱責し、最悪の場合はそのまま帰らせてしまう。
そのせいで、何人かのモデルの女の子が泣いている姿を見たことがある。

遠山さんの端正な顔が、一瞬だけ「くっ……」と苦悩に歪んだ。
だが、彼女はすぐに自尊心を鋼の仮面で覆い隠した。

「……そうですね。少し焦っていたようです。失礼しました。」

彼女はゆっくりとカメラの前に戻ると、足元のスカートをストンと床に落とした。
そして、逃げ場のないライトの下で、両腕を潔く頭上へ掲げる。

上下セットの下着姿で無防備な脇を晒し、審判を待つ彼女の姿。
いつもは冷徹に他人を裁いていたその肌が、今は大勢の視線に曝され、わずかに震えている。
そのあまりにもアンバランスな光景に、僕は心臓の鼓動が早まるのを抑えきれなかった。

「では、チェック入ります。」

スタッフの事務的な掛け声とともに、静かなスタジオにシャッター音が連続して響く。
カシャ、カシャと小気味よい音が鳴るたびに、正面の巨大なモニターには遠山さんのワキが毛穴のひとつひとつまで見えそうなほど鮮明に映し出された。

その画像を、その場にいる全員で確認する。
モデルとしてはたまったものではないだろうが、その分ギャラは上乗せされている。
だが、今の遠山さんにはそんな「対価」など存在しない。
ただ、普段は厳格なスーツで守っている秘部を、部下やスタッフたちの好奇の目に晒し、批評を受けるという剥き出しの屈辱があるだけだった。

「遠山さん、どうですか?」

結局のところ、問題があるかどうかを決めるのは遠山さん自身だった。
僕から見れば、そこには完璧に処理された綺麗なワキがあるようにしか見えなかった。

「そうですね。ワキは問題無さそうです。次は鼠径部ですね。」

彼女は再びカメラの前に立つと、震える指先でショーツの両端を掴んだ。
そして、いつも自分がモデルに命じてきた通り、それをグイッと力強く引き上げる。

陰毛のはみ出しがないかを確認するため、あえてショーツを股間に食い込ませる。
そのポーズは、ある意味では全裸になるよりも羞恥を伴うのかもしれない。
レンズがその最も際どい境界線へとズームし、シャッターが切られる。

続いて、彼女は背を向けた。
想像していたよりも豊かな、丸みを帯びた曲線が露わになる。
彼女は迷いを断ち切るように、自らの手でショーツをTバックのように深く食い込ませ、その割れ目を強調する姿勢を取った。

「ワキもそうだけど、この辺も綺麗だね。」

スタッフのそんな声が漏れる。

「脱毛してるので、問題ないと思います……。」

遠山さんは、少し苦々しい表情でそう答えた。

僕は、モニターに映し出されたその「食い込み」の生々しさと、彼女の白い肌の質感から目を離すことができなかった。

すると次の瞬間、他の人から見えないように遠山さんがバシッと僕の頭を叩いた。

(いけない、いけない。ちゃんと仕事に集中しないと……。)


遠山さんは、自らの肢体を衆目に晒すことで、この場に立つ資格があることを証明してみせた。
ひとたび「被写体」として認めれば、スタッフたちもプロだ。
残されたわずかな時間でいかに最高のカットを切り出すか、現場の空気は鋭い集中力に支配されていった。

着替えを終えた遠山さんが、スタジオに戻ってくる。
通常のモデルであればバスローブを羽織って現れるのが通例だが、一分一秒を争う状況を誰よりも理解しているのは、企画者である彼女自身だった。

彼女は、新作のランジェリーを身に纏っただけの姿で堂々と現れた。
気になるのは、用意していたサンプルが遠山さんの体に合うかどうかだった。

「……遠山さん、サイズは大丈夫ですか?」

僕の問いかけに、わずかな笑みを浮かべて答えた。

「正直に言うと、少しだけ大きいのよね。でも、大丈夫。」

そう言って、彼女はブラジャーのカップの端を指先で軽く持ち上げた。
確かに、用意されていたモデル用のサイズに対して、彼女の胸はわずかにゆとりがあるように見えた。

だが、その瞬間だった。
持ち上げられたカップの隙間から、彼女の秘められた先端が無防備にその姿を覗かせた。

「……っ」

彼女自身は、その「綻び」に気づいていないようだった。

「お願いします!」

遠山さんはそう声をかけ、そのまま撮影ブースへ歩いていった。
僕は、見てはいけない物を見てしまったような気になり、心臓の鼓動はなかなか静まってくれなかった。

それからの撮影は、驚くほど順調に進んでいった。
普段からポージングの細部まで指示を出しているだけあって、彼女は自らの頭にある完成図を見事にその身体で具現化してみせた。
スタッフやカメラマンのアドバイスを瞬時に吸収し、自分自身に対しても一切の妥協を許さない。

爽やかに着こなすカタログ用のカットから、陰影を強調したセクシーなポーズまで。
シャッターが切られるたびに、彼女は「完璧な商品」としての自分をさらけ出していく。

だが、その熱を帯びた撮影の最中、僕は「それ」に気づいてしまった。

……ブラジャーのカップが、浮いている。

彼女が大胆に身体をひねり、艶やかなポーズを取るたびに、わずかにサイズの大きいカップが肌から離れる。
その隙間から、彼女の色素の薄い柔らかな先端が無防備に姿を覗かせていた。

おそらく、彼女の正面に陣取っているスタッフたちの目には、その禁断の光景が焼き付けられているはずだ。
少しだけサイズが合わなかったという、ほんの些細な計算違いが招いたハプニングだった。

(……伝えるべきか?)

今この瞬間に指摘すれば、彼女の集中力は途切れ、羞恥心で萎縮してしまうかもしれない。
葛藤しているうちに、一着目の撮影が終了した。

「遠山さん……ブラジャーが少し浮いている場面がありました。気をつけてください。」

更衣室へ向かう彼女を呼び止め、僕は耳元でそっと告げた。
彼女は弾かれたように足を止め、驚いた表情で僕を見つめた。

「え?……もしかして、見えてた?」

珍しく、わずかに焦ったような表情だった。
さすがに「はっきりと見えていました。」とは言えず、僕は「僕の位置からは大丈夫でしたから。」と、せめてもの嘘で彼女の動揺を抑えた。

「そう……ありがとう、助かるわ。ニプレス、あったかしら。……いや、もう時間がない。そこは見えてしまっても妥協するしかないかな……」

彼女は自分に言い聞かせるようにぶつぶつと呟き、更衣室へと消えていった。

僕はひとり、カメラ横のメインモニターに戻り、今しがた撮影されたばかりのデータを確認した。
……案の定だった。
何枚かのカットには、彼女の意図しない「乳首」が、鮮明すぎるほどに記録されている。

僕は周囲の目を盗み、それらの画像を素早く別フォルダへと仕分けた。
社運を賭けたプロジェクトの公式データとして残すわけにはいかない。
そして何より、彼女のあの誇り高い姿を、無遠慮な視線から守るために。


撮影はついに終盤へと差し掛かっていた。だが、無情にもスタジオのレンタル終了時刻が迫る。
今着ているセットのほかに、どうしてもあと一着、撮影を完了させなければならない。

遠山さんの瞳にも、焦燥の火が灯っていた。
彼女はポーズを維持したまま、鋭い声で僕に指示を飛ばした。

「更衣室に最後の一着が置いてあるわ。取ってきて!」

その言葉の意図を察し、僕は胸を騒がせながら更衣室へと走った。
中には、彼女が今朝まで身に纏っていたスーツが丁寧に畳まれている。
そしてその傍らには、彼女自身の私物の下着が形を保ったまま置かれていた。

一瞬、その生々しいプライベートの断片に理性を奪われそうになったが、彼女が僕を指名したのは「信頼」ゆえだと自分に言い聞かせた。
僕は名残惜しさを振り払い、最後の下着を掴んでスタジオへと引き返した。

「……ナイスタイミング。」

戻ると同時に、今着用している下着の撮影が終了した。

「あの、どこで着替えますか?暗幕を持ってきますが……」

僕の問いを、彼女は笑顔で制した。

「いいの、時間がもったいないわ。ここで着替えるから、貴方は次の準備を指示して。」

言うが早いか、彼女は迷いなく背中に手を回し、ブラジャーのホックを外した。
衆人環視のライトの下、彼女の小ぶりながらも彫刻のように形の整った胸が露わになる。
周囲からは、感嘆とも動揺ともつかない微かな吐息が漏れた。

今の僕にできるのは、彼女のこの痛々しいまでの覚悟を好奇の目から守ることだけだ。

「メイクさん、直しを!カメラマンさん、ライティングの最終確認お願いします!」

僕はあえて大声で指示を出し、スタッフたちの意識を物理的な作業へと向けさせた。
彼女が新しいブラジャーに腕を通し、続いてショーツに手をかける。
するりと滑り落ちた布地の向こう、一点の曇りもなく手入れされた彼女のワレメが視界をよぎった。

僕は反射的に自分の身体を割り込ませ、背後からの視線を遮る壁となって彼女の着替えをサポートした。
至近距離で交わった視線の中で、彼女が小さく「ありがとう。」と唇を動かした気がした。

「準備できました!最後の撮影、お願いします!」

新しい下着を完璧に着こなした彼女は、一分の隙もない足取りで、再びカメラの前へと進み出た。


怒涛の勢いでシャッターが切られ、どうにかレンタル終了のチャイムが鳴る前にすべての行程が完了した。

だが、余韻に浸る暇などない。
スタッフたちは示し合わせたように、一斉に機材の撤収作業へと取り掛かった。
慌ただしく人が行き交う中、僕はひとり、バックアップ用のPCで全データの最終確認を行っていた。

「……やっぱりか。」

画面をスクロールする指が、ある箇所で止まった。
そこには、本番のカットではない「空白の時間」が克明に記録されていた。

最後の一着に着替えるため、彼女がブラジャーのホックを外した瞬間。
露わになった小ぶりで形の良い胸。
そして、躊躇なくショーツを滑り落とし、無防備に晒された、手入れの行き届いた彼女のワレメ。

僕が必死に身体で遮ったつもりだったその隙間を、カメラマンのレンズは逃さず捉えていた。
執拗なまでの連写、そして、悪意すら感じるズーム。
さらに別のカットには、それを眺めながら下卑た笑みを浮かべるスタッフたちの横顔までが写り込んでいた。

凛として現場を支配していたはずの彼女の肢体は、彼女が背を向けた瞬間に、ただの「見世物」として消費されていたのだ。

込み上げてくるのは、言いようのない悔しさだった。
けれど同時に、これが今まで彼女が多くのモデルたちに強いてきた「支配」に対する、あまりに残酷な報いなのかもしれないという思いもあった。

「……これ以上、誰にも見させない。」

僕は急いで操作し、彼女の痴態が写ったすべてのコマを、自分だけが持つUSBメモリーへと転送した。
そして、共有サーバーやカメラ本体の履歴からは、跡形もなくデータを消去した。

これ以上、遠山さんを余計な形で辱めないために。


エピローグ

撮影された写真は社内でも空前の評価を受け、「これで行こう」と満場一致で太鼓判を押された。

企画立案者である遠山さん自身がモデルを務める――。
この異例の物語性は最高のプロモーションとなり、新ブランド『TOYAMA』として華々しくデビューを飾った。目論見は見事に当たり、新作下着は記録的な大ヒットを飛ばすことになった。

「本当にお疲れ様。……乾杯。」

狂騒の日々が落ち着いた頃、僕たちは二人だけで小さな居酒屋にいた。
最初は仕事の展望を熱く語っていたが、酒が進むにつれ、話題はとりとめのない日常へと移り変わっていく。
ほろ酔いで頬を赤く染めた遠山さんが、ふとグラスを置いて僕を見つめた。

「ねえ……そろそろ、返してくれてもいいんじゃないかな。」

心臓が跳ねた。心当たりは、たった一つしかない。
あの時、誰にも気づかれずに持ち帰ったはずの、あの秘密のデータが入ったUSBメモリー……。

「……一体、何のことですか?」

必死にとぼけてみせる僕を見て、彼女はいたずらっぽくにんまりと笑った。

「そうかそうか。そんなに私の裸が魅力的だったか。……なら、ちゃんと責任取ってくれるのかしら?」

冗談とも本気ともつかない、恐ろしい言葉が飛び出す。
確かに彼女は美人でスタイルも良く、普段は理知的で穏やかな女性だ。
だが、一度スイッチが入った時のあの激情を、プライベートでも受け止める自信があるかと言われれば……。
一生尻に敷かれる覚悟がなければ、お付き合いどころか結婚なんて到底無理だろう。

「ぐ……っ」

即答できずに呻く僕を見て、彼女は「クスッ」と、どこか寂しげに笑った。

「冗談よ。……あの時、データを消してくれてありがとう。撮られているのは分かっていたけど、あの時の私には、どうしようもできなかったから。」

彼女は手元のジョッキを見つめ、独り言のように零した。

「私が悪いのは分かってるのよ。今まで自分がしてきたことが、ああいう形で返ってきたんだろうなって。でもね……それでも、上手く止められないの。……だから、みんな離れていっちゃうのよね。」

自嘲気味に呟くと、彼女は伝票を手に取って立ち上がった。

「今日はありがとう。私のおごりね。」

背中を向けてレジへ向かおうとする彼女を、僕は反射的に後ろから抱きしめていた。

「……僕なら、ずっと離れたりしませんから。」

自分でも驚くほど、心臓の音がうるさく鳴り響いている。
一瞬の静寂の後、彼女の細い指が、僕の手にそっと重ねられた。

「……ありがとう。」

その一言に、言いようのない幸福感が全身を包み込む。
だが、そこが公共の場である居酒屋だということを、僕は完全に失念していた。

「ヒューヒュー!お熱いねえ!」「兄ちゃん、やるじゃねえか!」

一斉にはやし立てられ、僕たちは同時に手を離した。
遠山さんは顔を赤くし、僕は僕で何も言えず固まってしまう。

そんな僕たちを見て、店の中にはどっと笑いが起こった。

遠山さんは困ったように、でもどこか楽しそうに笑っていた。
その横顔を見ながら僕は思う。

たぶんこれから先もこの人には振り回され続けるのだろう。
けれど、それも悪くない。

そう思えた夜だった。

END


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

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