私は今、人生最大のピンチに陥っている。
二泊三日の温泉旅行。
名湯をいくつも巡り、旅先でテンションが上がった勢いでたくさんのお土産を買ってしまった。
……これが良くなかった。カバンはパンパンで、チャックすら閉まりきらない状態。
最終日の朝、目覚めると同時に「これを持って帰らなきゃいけないのか……」と、半ば絶望していた。
すると、旅館のロビーに一枚の張り紙が貼ってあるのが目に入った。
『お荷物郵送できます』
藁にもすがる思いで女将さんに話を聞いてみると、どうやら送料着払いで自宅まで届けてもらえるらしい。
「集荷の配達員さんがあと30分くらいで来ちゃうから、送るなら急いだ方がいいわよ。」
そう言いながら、女将さんは伝票とペンを渡してくれた。
あとはもう家に帰るだけだし、スマホさえあれば何とかなるだろう――そう高をくくってしまったのが、最大の敗因だった。
急いで送り状を書き上げ、女将さんに荷物を預けると、私は身軽になった体でバスに乗り込み、最寄り駅へと向かった。
だが、バスに揺られてしばらく経った頃、ふとある違和感に襲われた。
「……待って、お財布は?」
そうだ、カバンの整理をしたとき、財布もまとめてカバンの中にしまってしまったのだ。
つまり、私は財布ごと荷物を自宅へ送ってしまったことになる。
現金も、クレジットカードも、ICカードも、すべてあのパンパンのカバンの中だ。
そんな致命的なミスにすら気づかず、私は後払い方式の路線バスに乗り込んでしまっていたのだった。
パニックになりながら必死でポケットを探ると、お尻のポケットから小さな小銭入れが出てきた。
助かった……!と一瞬胸を撫で下ろしたが、中身を確認して凍りついた。
入っていたのは、わずか300円。
慌てて運賃表を見上げると、次のバス停を過ぎてしまうと運賃が300円を超えてしまうことが判明した。私は半ばパニック状態で降車ボタンを押した。
――そして、現在に至る。
周りに田んぼと山しかない見知らぬバス停に、ポツンと取り残されてしまった私。
普段は現金派だからと、スマホ決済やカードの登録は一切していなかった。
まさかこんな事態になるなんて思いもしなかったのだ。
「由美の忠告を聞いておけばよかった……」
よくよく考えれば、降りずに終点まで行って運転手さんに事情を話し、連絡先を書いて後日支払うという手もあったはずだ。
パニックになると人間はろくな判断ができない。
だが、過ぎてしまったことを悔やんでも始まらない。
私は深いため息を一つ吐き出し、バス停の時刻表に視線を送った。
「……いやいや、嘘でしょ?」
そこに書かれていた次のバスの時間は、なんと3時間後。
何から何まで、すべてが裏目に出ていた。
「……仕方ない、駅まで歩こう。」
諦めて開いたスマホの地図アプリは、目的地までの距離「20キロ」を容赦なく指し示していた。
足には多少の自信があったので、私はとりあえず駅があると思われる方角へ向かって歩き始めた。
だが、周りを見渡してもポツポツと民家が見えるくらいで、他には本当に何もない。
道なりにただひたすらまっすぐ歩くしかなかった。
遮るもののない道に、真夏の強烈な日差しが容赦なく降り注ぐ。
じわじわと、けれど確実に体力が削られていくのが分かった。
「……これ、ちょっとマズくない?」
手元にあるのはスマホと、半分ほど減ったペットボトルの水だけ。
すでにかなりの距離を歩いてしまっており、最初のバス停に戻ることすらできない。
水分を補給しようと口をつけるたび、手元の水はみるみるうちに減っていく。
全身汗だくになり、どことなく軽い眩暈までしてきたような気がした。
気づけば、いつの間にか周りから民家すら消えていた。
頭の中に『遭難』という最悪の二文字が浮かび上がる。
慌ててポケットからスマホを取り出してみたが、画面の右上には無情にも『圏外』の文字が表示されていた。
被っているキャップのつばからポタポタとこぼれ落ちる汗が、まるで自分の生命力が滴り落ちているように感じられて、急に恐ろしくなった。
そんな私を絶望させるように、目の前には延々と続く急な坂道が立ちはだかった。
「……よし、あの坂をのぼり切ろう。のぼり切ったら、最初に見つけた家に助けを求めに行こう。このままじゃ……本当に死んじゃう……」
私は最後の力を振り絞り、一歩一歩、踏みしめるように坂道を登り始めた。
「……せめて……車が一台でも通ってくれたら……」
弱音を呟きながら、重い足を前に出し続ける。
そして、どうにかこうにか坂の頂上へと到達した。
「……あ、あった……!」
そこには、ポツンと佇む小さな建物があった。
どうやら何かの店舗のようだ。かろうじて意識を保ちながら看板を見上げると――。
『霞屋質店』
「……質屋さん?」
クラクラする頭の中で、電撃が走ったように一つの閃きが浮かんだ。
私がいま腕につけているのは、お気に入りの三万円で買った腕時計。
もしかしたら、質屋なら一万円……いや、数千円くらいで買い取ってもらえるかもしれない。
お気に入りの時計を手放すのは惜しいけれど、背に腹は代えられない。
もし売ることができれば、駅までの交通費も手に入るし、何よりお水を分けてもらえるかもしれない。
私はまさに藁にもすがる思いで、その店の扉を押し開けた。
ガラリと引き戸を開けると、店内にはむせ返るような独特のお香の匂いが充満していた。
だが、それ以上にひんやりとした冷房の風が、火照った身体にはこの上なくありがたかった。
「おやおや、お客さんとは珍しいですね。」
カウンターの奥から声がした。
そこにいたのは、見るからにあやしげな男だった。
古びたレジのあるカウンターに座っているところを見ると、おそらくこの店の店主なのだろう。
「あ、あの……こちら、質屋さんですか?」
念のために尋ねてみる。
こんな極限状態でも、「違ったら恥ずかしい」という気持ちが残っていたことに自分でも少し驚いた。
「ええ、質屋ですよ。買い取れそうなものをお持ちでしたら、どうぞ遠慮なく。」
男は甚平に深い帽子を被っており、影になって目が全く見えない。
口元だけがニヤリと歪んでいるが、その真意は読み取れなかった。
だが、今の私に引き返すという選択肢は存在しない。
「あの!」「……おっと、少々お待ちください。」
私が切羽詰まった声を上げると、店主はそれを制して店の裏手へと回った。
そしてすぐに、氷の浮かんだグラスに入ったお茶を二つ、お盆に乗せて持ってきた。
カララン、と氷の鳴る音が響く。
喉から手が出るほど美味しそうだった。ゴクリと唾を呑み込む。
「どうぞ。まずは一息ついてから、お話を聞きましょう。」
普段の私なら見知らぬ場所で出された飲み物なんて警戒して手をつけなかったはずだ。
だが、脱水症状の手前にいた私の身体は、その魅力的な誘惑に勝つことができなかった。
手渡されたグラスを受け取るやいなや、私は一気にそれを飲み干した。
乾ききった身体が、まるでスポンジのように冷たいお茶を吸収していく。
「おやおや、よっぽど喉が渇いていたのですね。よろしければ、こちらもどうぞ。」
促されるまま、私はもう一杯のお茶も一息に飲み干してしまった。
「あ、ありがとうございました……」
どうにか一息つくことができた。
ただ、そのお茶はどこか薬草のような、今まで飲んだことのない不思議な味がした気がする。
「さてさて、では買取のお話に入りましょうか。」
そうだ、お茶の美味しさに毒されて本題を忘れかけていた。
私は慌てて、腕からお気に入りの腕時計を外した。
「これを……買い取って欲しいのですが。」
「ほほう、腕時計ですか。少し拝見させていただきますね」
店主は腕時計を受け取ると、虫眼鏡のようなルーペを取り出し、じっくりと観察し始めた。
「……なるほど。」
ふうと短く息を吐き、店主は腕時計を静かにカウンターへ置いた。
「2000円ですね。」
「え?」
思わず声が出た。そんなに安いの?
確かに使い込んではいるけれど、元は三万円もしたのに……。
「ご不満ですか?ちなみにですが、ご希望の金額は?」
「あの……できれば一万円くらいで……」
おずおずと答えてみる。
だが、やはり帽子の下の表情が曇ったのが分かった。
「申し訳ありません。どんなにおまけしても2500円ですね。」
はっきりと一蹴されてしまった。
やはり図々しすぎただろうか……。
「ですが――もし他の物もお売りいただけるのでしたら、一万円以上ご融資できるかもしれませんよ?」
「他のもの……ですか?」
胸の奥で、すごく嫌な予感が走った。
だが同時に、店内に満ちる強いお香の香りと、先ほど飲んだお茶のせいか、頭が急激にぼーっと霞み始めていた。
「……売れるものが、あるのなら……」
自分の意思とは裏腹に、口が勝手に言葉を紡いでいた。
男がニヤリと口元を歪めた。
「では、まずその被られているキャップを1000円で買い取りましょう」
――帽子くらいなら、まあ良いか。
そう思い、つばに手をかけた瞬間、それが自分の汗でぐっしょりと濡れていることを思い出していた。
普通なら、見知らぬ他人にそんなものを手渡すなんてあり得ない。
だが、身体が言うことを聞かなかった。
私は躊躇なくそれをつばから外し、男へ手渡した。
「ほほう。汗でずいぶんと濡れていますね。」
男はキャップを受け取ると、あろうことか鼻を近づけてクンクンと嗅ぎ始めた。
「シャンプーの香りに混じって、頭皮の匂いもしますね。汗の匂いもなかなかのものです。」
心の奥底では激しい嫌悪感が渦巻いているのに、口が勝手に動いてしまう。
「ど、どうですか?もう少し値段、上がりませんか……?」
「ふむ……」
男は顎に手を当てて思案顔を作った。
「失礼ですが、お客様はお幾つですか?」
「あ、はい……21になりました。」
「なるほどなるほど。分かりました、1500円ご融資いたしましょう。」
1500円で買ってもらえたことに、不思議な喜びが胸を満たしていった。
もっと買い取ってほしいとさえ思い始めていた。
キャップは丁寧にジップ付きのポリ袋に密封された。
「まだまだ目標金額には届きませんが、次の交渉に移ってもよろしいですか?」
ここで止めなければダメだと本能が警鐘を鳴らしている。
それなのに、抵抗ができなかった。
「はい……。つ、次はこのシャツはどうですか?」
自ら次の出品を指定してしまう。
帽子以上に汗を吸い込んでビチャビチャになったTシャツ。
下に着ているブラジャーまで透けてしまっている。
「なるほどなるほど。では、こちらにお渡しいただけますか?」
ニヤニヤと笑う口元に心底嫌悪しながらも、私は男の前でそれを脱いでしまった。
自分でも不快なほど濡れた生地を男に手渡す。
初対面の男の前で、下着姿同然になる。正気ならあり得ないはずなのに……。
「ふむ。思った以上に汗で濡れていますね。匂いの方は、と。」
男はシャツの両端を指先でつまみ、再びクンクンと嗅ぎ始めた。
その行動に、さすがの私も顔が火照っていく。
「……なるほど。そこまで強い匂いはしませんね。お客様の良い匂いがします。では、ここは……」
そう言いながら、男は袖のあたり――腋の当たる部分に鼻を近づけた。
「ちょ、ちょっとそこは!」
思わず声を荒らげてしまう。
全てを受け入れかけている今の状態でも、さすがに腋の匂いを嗅がれるのは恥ずかしすぎた。
だが、男は意に介さず嗅ぎ続ける。
「ワキガではないですね。これだけ汗をかいているのに嫌な臭いがしません。」
喜んでいいことなのかすら分からない。
とにかく男の行動がいちいち気持ち悪い。
「ひとつお聞きしたいのですが、なぜお客様はこんな辺鄙な質屋においでなさったのですか?」
正直なところ答えたくはなかった。
だが、やはり自分の意思を無視して言葉が漏れ出る。
「はい……旅行に来たのですが、手違いで荷物と一緒に……お財布を送ってしまって……」
ただただ恥ずかしい大失敗。
だが、帽子の奥にある男の目が、怪しく光った気がした。
「そういったご事情がおありでしたか。なるほど、私も鬼ではありません。こちらのシャツは1500円のつもりでしたが、2000円ご融資いたしましょう。」
キャップより500円高く売れた。
だんだんと、嫌悪感よりも買い取ってもらえた喜びが勝るようになっていく。
シャツもまた、ジップ付きのポリ袋へと収められた。
「ご希望の金額にはまだ至りませんが、続けますか?」
「……当然です。」
帰るためのお金を稼がなければならない。
そのためなら売れるものは何だって売ってしまおう。
今の自分がどんな格好をしているかも忘れたかのように、思考が都合よく書き換えられていく。
そして――。
「次は……これをお願いします。」
私は履いていたデニムのショートパンツを脱いだ。
幸い、ショートパンツ自体はそれほど汗を吸っていなかった。
さっきのシャツに比べれば気楽な気持ちで男に渡すことができた。
だが、私は気づいていなかったのだ。
汗を吸い込んで重くなっていたのはショートパンツではなく、その下に履いていた薄いショーツの方だということに。
白いショーツは、汗で濡れて肌に張り付き、黒々とした陰毛を痛々しいほど透けさせていた。
そんなことにも気づかず、私は査定を待つ。
「はい、ショートパンツですね。匂いは……あまりしませんね。なるほどなるほど。」
男は深考しているようだ。そして、査定が出た。
「500円でしたらご融資できます。」
「えっ!500円ですか!?」
まさかキャップより安いなんて思わなかった。
匂いという要素がそこまで重要なのか……。
「ですが、お客様のご事情も汲みまして……倍の金額をお出ししましょう。」
『倍』という甘い言葉に、コロリと引っかかってしまった。
深く考えずに「はい」と返事をしてしまう。
いや、もはや正常な判断などできる状態ではなかったのかもしれない。
500円が1000円になっただけだというのに、とてつもない達成感と幸福感が身体中を支配していた。
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